
レイキティーチャーになるってどういう事か考えてみる
まだまだ、レイキティーチャーとして未熟な部分が多い私が話をするにはどうかなぁ・・・と考えていたのですが、レイキティーチャーの受講を希望される方からメールをいただいたり、現在、ティーチャーとして活動をされている生徒から相談を受けることもあるので、一度、ちょっとまとめてみようかと思い切ったタイトルにしてみました。
私は、かなり普通からは反れた道順でレイキティーチャーになった経緯があり、良くいえば経験だけはしてきた と言えます。ただし成績として考えた場合、赤点スレスレのラインでやってきたとも言えます。
そういった反省を5月のブログに書いたので、ご興味ある方はどうぞ読んでみてくださいね。
↑マスターとしての過去を振り返り、反省してます。
ティーチャー マスターと名がつくものって、なんだか格好いいイメージってないですかね?
「先生」なんて呼ばれた日には気分がるんるんと嬉しくなるのかもしれません。
そして、このレイキマスター レイキティーチャーというのは基本的には受講しようと思えば受講できるコースです(各スクールによっては受講資格の規定をしているところもあるかと思います)。
言ってみれば、誰もが受けられ資格を得られる、ということですよね。
私も、今から思えば ですけど、よく受講させてもらえたな と思うぐらいに、レイキヒーラーとしての経験も浅い時期に資格を取りました。そして、レイキを伝える側の重い責任についてなど何も考えず、意識もせずにスタートさせました。
目に見えないものを伝えるということは責任が伴いますよ、ということはテキストにも書いてありますし、師匠からも言われることです。ですけど、レイキは受講する気持ちがあって受講料を支払えば誰もが取れる資格であることから、私はその責任を意識できず、さらにイメージも出来ずにレイキティーチャーをやってきた時期があったんですね。
セミナーを開き、アチューンメントを行い、レイキが使える身体にして差し上げればそれでOK!
確かに、その通りなんです。ティーチャーの仕事は。
こうして文章にしてしまえば、まあ出来る仕事だろうと思われるかもしれません。
しかしですね、レイキは伝授されていくものです。そして、この目に見えないエネルギーは、人の手を介して人に使われていくもの です。
もし、自身が教えたレイキが違った形で生徒に伝わってしまい、その生徒は自分の知らないところで他の誰かにそのままレイキを伝えてしまっていたら・・・どうでしょうか?
怖いと思いませんか?
自分に伝えられたレイキ。
ふと振り返るとその先には多くのレイキティーチャーがいて、彼ら彼女らは、自身が手にしたレイキを丁寧に大切に、ひとりの生徒、また次の生徒へと伝えてくださっているからこそ、私はレイキを持つことが出来た、という壮大な系譜が見えてくるはずです。
レイキは誕生して約100年という長い歴史があります。そこにどれだけの人たちの努力とハートとスピリットが織り込まれ伝わってきているのか。
そして、その系譜の一端を自分は担っていることを思うと、生半可な気持ちで出来る仕事ではない ということがご理解いただけるのではないかなと思うんですね。
そしてさらに、自身が伝えたレイキが違った形で伝わり、「レイキなんてたいしたことない!むしろ好きじゃない」と言われてしまったら、どうでしょうか?
レイキを必要とするかどうかはそれぞれの選択ですから、どう思われてもいいのですが、レイキを受けてみたいと思ってスクールのドアを叩いた方が、ティーチャーのおごりやエゴからくる間違いをそのまま受け取ってしまい、レイキが好きだったけど嫌いになった と言われたら・・・・?
信頼や好き 嫌いという感情は、一度、ひっくり返るとそれが元に戻ることは非常に難しいですから、大好きだったはずのレイキが、ティーチャーの姿勢や心持ちから嫌いなものとして伝わってしまえば、その生徒は二度とレイキを使おうとはしないと思うんですよね。
ティーチャーを取得した最初の段階で、私がこの責任の重さについて理解できていれば、私のレイキ道はもっと違ったものになっていたと思いますが、いろいろに幼く 未熟であった私には、まったくイメージできないものでした。お恥ずかしながらそんな過去が私にはあります。
残念ながら痛い経験をしてからそれらのことを学んだ私は、ティーチャーを取得した生徒に、割とリアルにレイキを伝える責任の重さ を私の経験として話をしています。
あるとき、ティーチャーの責任について話をしたときにある生徒は、
「怖い!怖いからセミナーやりたくないって思っちゃう」
と、言っていましたが、お免状をいただくまでの手軽さとは真逆の重たさがあるのが、レイキティーチャーなのだと私は思っています。
でもこれは、レイキティーチャーだけでなく、どの資格にも当てはまることだと思うんですよね。
民間資格であることで、いってみれば手軽に取得できるヒーラーやセラピストの仕事 というのは、それらの持つ、きらきらとした華やかな?イメージとは真逆で、資格を持って仕事をすればするほど、謙虚に頭を垂れて、地味に、自分と向き合いながら自身を磨いていく作業が続いていくものです。きらきら~なイメージからはほど遠いかもしれませんね(笑)。
レイキを使える人や、レイキを伝えていくことが出来る人が増えていくのは絶対に良いと思っています。レイキヒーラーと言わなくても、レイキを持っている レイキホルダーがあちこちにいて、手軽にヒーリングを行える社会は、人間社会に有益であると思えるからです。
しかし、そういった理想の形を思い描く一方で、実際にはレイキを伝えることには厳しさも兼ね備えているものであることを話していくことも大事なのかなと思っています。
人間は経験をしないと芯から理解できない動物ですから、転ばぬ先の杖で経験してきたことを話すことで、その方の成長をそいでしまう、ということもあると思います。
ですが、自分が経験してきた苦い思い出は、できるなら味わって欲しくない。初期の段階で気づいて受ける傷もあっさりであった方が、傷を癒す期間も修行のような孤独な期間も少なくて済む、とも思うんですね。
どちらがいいのか、私には分かりません。ですが、ファッションを流行に合わせて変えて楽しむような手軽さはヒーリングやレイキティーチャーにはない ということだけは言ってもいいのかなと思っています。
ようやくレイキティーチャー初歩は卒業できたのかな?と思うのですが、まだまだ学ぶことがたくさんあります。自分と向き合い磨く作業などは終わりがないんでしょうね(笑)。
作家の方がよっぽど楽な仕事だ!と本来、楽な方へ流れやすい私は思っちゃうこともあるんですけど、それでも辞めずにいるのは、この仕事の難しさに惹かれているんだと思います。打たれ弱いけれど、打たれることは嫌いじゃない のかもしれませんね(笑)。