
心の余裕と豊かさ
最近のちょっとしたマイブームは、朝食を外食でたべること。
飲み物だけのときもありますけど、朝の時間帯にファストフード店や、カフェに行ってぼんやりしたり、仕事をしています。
子育てを真っ最中の時には得られなかった時間ですが、子育ても一応の終了をしましたので、自分のために 時間を使っています。
長くこちらのブログを拝見してくださっている方々や生徒のなかには、数年前のがむしゃらに動いていた時代の私を知っている人もいて、あのときを思えば、今のファーストノエルは、仕事してる?って声をかけられそうなほど、非常にのんびりとした流れの中にいます。
イベントにも出ず、企画 主催することもなくなりました。
悟りを開いた?欲をなくした?
なんてことは、私にはあり得ません(笑)
今でも欲はありますし、悟りを開くにはまだまだ未熟で経験を積んだことがいいことばかりです。
世間というものがどこに存在するのか定かではないですが、それでも、世間がなんとなく描く”成功”というものを追いかけて追いかけて、沸点に差し掛かったあたりで、身を引く瞬間があったといえばいいのでしょうかねぇ。
やかんの水を沸騰し続けたら、水は水蒸気となって空中へ散っていき、いづれ やかんの水がなくなる ということを、運良く気づけた瞬間があったんですよね。
そこから、熱くなりすぎた水を冷やし、残った水を大事にしながら、浮いてばかりで何の手入れもしていなかった自分の足下を手入れし、固めていった作業を、ここ最近はずっとしていた という感じです。
ですので、派手さからはほど遠く、実に地味な、とにかく地味な現実を生きているのですが、その地味さが私には合っていたようで 毎日がしあわせだなぁと思える日々を過ごしています。
動き回っていたときは・・・そう、楽しかったですけど、幸せか?と問い、振り返ってみると、心にはまったく余裕がなく今、居心地がいいと感じる幸せとはほど遠いものですね。
いろんな人と出会えますし、やっている感!充実感も味わえますから、楽しかったし、楽しそうに見えていたと思います。
でも、どこかに空虚があって、その空虚さからじっと見つめられている、むなしさのようなもの・・・不安感はいつもどこかに感じていましたよね。しかしそれを、気づかないふりをしていましたね。一生懸命にね。
一見、きらきらと輝きを放つような、きらびやかさというか楽しさを感じるヒーリングという仕事ですが、実際には、ものすごく地味な仕事です。
自分をきらきらさせるためにヒーリングはあるわけでも、行うわけでもなく、クライアントをきらきらさせるのを目的としたお仕事ですから、ステージ上の黒子のような、決して目立つことのない仕事です。
それに自らの経験で気づいて、どうやったらクライアントや生徒がきらきらになれるのかなぁ、とか、癒やしが起きるのかなを追求するようになったあたりで、私の中を流れる時間が、のんびりとしたものになった気がします。
今ではもう、出会うことは滅多にありませんけど、それでもたまに、どちらがヒーリング能力が上か?という感じで、私の腕前?を試される方や、知識はどっちが上だ?みたいな、いわゆるパワー争いを挑まれている方に出会うと、もう、私はのんびりの時間を生きているナマケモノみたいなものですから、争う前に、そのステージから降りちゃうんですね(笑)。そんな激しい流れ、ナマケモノの身にはきついって思う(笑)
中には、パワー争いを心の奥底に隠しつつ、私に接してくるときはとても友好的な雰囲気を出される方もいますけど、わたし自身もコンプレックスを持って生きてきた経験がありますから、その方の奥底に気づいて、なるほどね~って思いながら、さっさと白旗を揚げて負けを認めます。
それはすべて、私が優れているという裏打ちの自信があるから、などといったことではなく、たぶん、その方のほうがヒーリング能力があったり、私の知らないことを知っていたりと優れていると思うから なんです。
誰かと比べて競い合わなくても、みんな、優れているし、みんな、才能の塊。
それは私自身においても、そうです。
ただ、それぞれに宇宙が与えた才能は、多種多彩。さまざまな色をしていて、それぞれに違うものを持っている。ただ、それだけのこと。
人と比べて誰かをうらやましいと思う。
周りの人が充実して輝いていると思えて、自分自身に不満を覚えて惨めに感じる。
だから、今の自分を盛ってみる。
出来ないことを、出来ると言ってみる。
そういう、強がりもよくよく分かります。
ほんとうにね、人間は弱いから辛さから逃げたい。だから自己防衛の手段として本当の自分に嘘を塗り重ねて、いかにも充実している感、きらきら感を装う気持ちも、よく分かります。
でもねぇ、やっぱり嘘は嘘でしかないので、いつかその積み重ねた嘘が澱となって固まり、自分自身を苦しめていってしまいます。
本当に幸せになりたいと思ったとき、ほんとうに自分が好きなことをやりたいと思ったとき、重ねてしまった余分なものが足枷となることがあるんですよね。
余分なもの、とは、心に容量が決められていると考えた場合、本来なら心に入れたい要素があるのに、余分があるために入れることが出来ない、と言えますよね。
余裕を持つ、ということは、余分をなくし、心に入れておきたい要素をたっぷり収納できること。
そうすることで、自分にとっての幸せや好きに気づいて、毎日を穏やかに平和に生きられるのではないかなと思っています。
最近、県外に暮らしている娘が帰宅し、ひさしぶりに家族で過ごしたのですが、身近な生徒に、そのときの過ごし方を話したら、さすがオタクなノエルさんですね、と呆れられるものでした。よって詳しくは話しませんが、そんなくだらないことでも家族で笑って過ごせるって、最高に幸せなことなんですよね、私にとってはね。
それは、成功を求めて走り回っていた私は味わえなかったこと。
こうして、ナマケモノにならなければ気づかなかったことです。
先月、京都でヒーリングの先生にお会いしたときに、とても素敵な、これからの指針となる言葉をいただきました。
それは、普通に生きる私たち・・・家の掃除をしたり子供や家族のことで悩んだり苦しんだりを経験し乗り越えた私たちが放つ、光。
特別なところがこれといってない私でも、光を持っている。
一緒にいた友達と、皿洗いしたり廊下を雑巾がけしていてよかったね~、なんて笑っていたのですが、普通に生きることを大切に思う私には、励みになる言葉でした。
ナマケモノと化した私。
またのんびりするために、ふらりとファストフード店の片隅でぼんやりしているかもしれません(笑)