しあわせだなと言える人生を生きること

しあわせだなぁ~と言えること

避暑地としても知られる長野県が、毎日のように30度を超えております。

この暑さ!虚弱な私には堪えます。

なにより、熱中症で尊い命が奪われたり、西日本豪雨で被害に遭われたみなさまにとってこの暑さは言葉にならないほど大変なことだろうと思います。

宇宙は、その人にとって乗り越えることが出来る壁だけを与えると言いますが、それって本当にそう?と、暑さで目覚めたまだ薄暗い早朝、地球に大接近している真っ赤な火星を見ながらふと考えていました。

 

サロンにも、さまざまな辛い思い、心の痛みを抱えて来られる方がいらっしゃいます。

その辛さ、悲しさ、どうにもならないと思う閉塞感・・・。私は想像し、ただただ寄り添うだけなのですが、それでも、過去には似た思いをしていますから、寄り添う距離も少しだけ近くなれるのかもしれません。

 

今月、娘が二十歳の誕生日を迎えました。

親としては生まれたての自分では何もできない赤ちゃんの頃から育てあげ、二十歳になったというのは感慨深いものがあるのですが、その娘と、ラインでやりとりをしていたとき、彼女が躊躇うことなく、ごく自然に、当たり前のように、「今がしあわせだなぁ」ということを書いてきました。

 

その文字を見た私と主人は、彼女の両親として心の中でガッツポーズだったのですが、それには理由があるんですよね。

 

私が高校生、20代前半の頃・・・まだバブル期の余韻が残っていた頃。

当時、私は作家をやっていたのですが、そのときの出版社のバブリーっぷりは半端ないものでした。ここで詳しく書けないのは残念ですが、とにかくバブリー!

 

戦後の貧困から完全なる復帰を見せ、イケイケどんどん!で、誰もが豊かな暮らしをできるようになった、その絶頂期といえるかもしれません。

しかし、バブルは崩壊。そこからは閉塞感が私たちを覆いました。

 

外へ突き抜けるような開放感とは縁遠く、ある意味、混沌としていた時期を過ごしてきたといってもいいかもしれません。

 

人がなにがしあわせで、そうではないのかが分からなくなったと私は捉えているのですが、バブル期はある意味簡単であったと言えるかもしれません。

お金を稼ぐことが目標であったし、豊かな暮らしをすることがステータス。しかし、そんな時代が終わりを告げて、新たな価値観が必要になったとき、お金を稼げば、ハイブランドのバッグや腕時計を身につけていればしあわせだと思っていたものが、そうではないらしいに変わったわけですから、みんなが迷うわけですよね。

 

じゃあ、いったい自分にとってのしあわせってなんなの?と。

 

どうもお金があればしあわせだ は、完璧なしあわせではなくて、どこか足りないらしい。

であるとか、

ハイブランドのバッグだけじゃなくて、低額だけども手作りで丁寧に作られたバッグは私に馴染んで使いやすい。

 

などと、みんながしあわせっていうんだから自分もしあわせに違いないという形から、

あなたのしあわせと、私のしあわせはおなじではない。

 

ということが分かってきた数十年であったと思っているんですね。

 

そのなかでブームとなったヒーリングも、お互いが違っていて良い世界ということを私たちに教えてくれるきっかけのひとつになったのだろうと思っていますし、逆に、混沌とした時期に抱えたコンプレックスを癒やすためにヒーリングが注目された という視点もあるでしょう。

 

私が生きた子供時代は、個人のしあわせなど考えない時代だったと記憶しています。

 

あなたは何をしたい?ではなく、

何をしたら、あなたはしあわせになるか。

 

それを、両親も学校も教えてきたように思うんですね。

 

でも、なぜか私は子供の頃から、私は何をしたいか?を基本に生きてきたところがあり、作家の道もそのひとつ でした。

 

作家になりますと中学最後の参観日で発言したのですが(そういう自身の夢を語る時間だったので)失笑を買ったぐらいでしたし、両親からは、砂漠の中で小さな米粒をひとつ拾うような物 と、作家になれるなどあり得ないからそんな夢を諦めろと諭されるほど。

 

でも、なぜだかそうは思えず、自分がやりたいことをひたすら追求する人間だったんですよね。

 

途中には挫折も自分軸がぶれることもありましたけど、それでもやっぱり最後に行き着いたのは、周囲の価値や考えではなく、自分がやりたいことをやればいい。それが自分にとってのしあわせだということでした。

 

「今がしあわせです」であるとか

「なにがあっても、けっきょく私はしあわせなので」

といえる人、というのは、地に根を張る強い方ばかりです。

 

なぜなら、自分以外のところで波風が起きて、またそれを受けたとしても、根っこの部分が自分で感じるしあわせで満たされているので、辛いことがあっても乗り越えていけるんですね。乗り越えていける力があるとも言えると思います。

 

二十歳になったばかりの娘は、学生で好きなことを大学で学び、親の庇護の元、一人暮らしをしています。自分が望んだ勉強を最優先できる環境ですから、それは、しあわせだと言えるのだと・・・そう思われるかもしれません。

 

しかし、しあわせは環境が与えるものではないんですよね。

 

娘と似た境遇の学生が「しあわせだぁ」と誰もが言っているかといえば、実はそうではないですよね。

 

娘もすべてにおいて満たされているわけではなく、聞けばお友達のことで悩んだり、自身の病気で食事管理などをしなければならないので、大変なこともあります。

 

それでも、しあわせだなぁ~といえる。

 

これは、彼女自身がしっかりと、自分自身 というものと繋がっているからだと思っているんですね。

 

私はこれが好きで、これは嫌いというような、自分自身についてよく分かっている。だから、自分をしあわせにする方法が分かるんですよね。

 

自分にとってのしあわせは、決して他人と同じということはありません。

似ていたり、重なっているということはあっても、好き や 嫌いといった好みがあるように、しあわせは自分だけが感じるもの なんです。

 

見た目や言動や行動から、きっとこの人はしあわせなんだろうなぁと思っていたところ、実際には、心の中には不安と心配が渦を巻いていて、いつもいつも、焦りを感じながら生きている。という人たちによく出会った時期があり、表面上は充実しているのに、こちらで話をするときは、それとはまったく違う顔が見えてきて、充実しているという虚構を打ち立て、その裏で冷や汗をかいているのがよく分かったんですね。

 

それだと、ちっともしあわせではないんです。

確かに、そういったふたつの顔を持つ彼らは、しあわせというよりは、あくせくしていて大変そう というイメージでした。

 

どこかで虚構を手放してしまえばいいのにと思ってもできない。

素の自分が顔をのぞかせたとき、その弱さや小ささに自分自身がおののき、恐怖を感じてしまうから、虚構を続けることしかできなくなってしまう。

 

実はこれ、数年前の私 でもあるんですよね。

だからこそ、そういった人物に出会ったわけですけど(類友の法則ですね)。

 

苦しい人生よりも、辛い人生よりもしあわせな人生の方が誰だって良いと思うはずです。

 

それにはまず、他人の評価や価値観などは気にせず、自分自身と向き合い、私が好きなものはなに?私ってどんな人間?と、うまく自分と繋がりながら、自分にとっての”好き”を見つけ出すことが、魂が求めるしあわせへの一歩なのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ファ.ーストノエル

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