
ありがたいなぁと思う日々
思えば私は、高校生の頃から仕事をしていたので、不謹慎な話かもですが営業自粛で休業となった今、生きてきた中でいちばんのんびりしている気がしています。
来月の手帳は真っ白。さてどうなるやら?と不安に思わないわけではないのですが、案外とポジティブにもネガティブにも陥らず割と淡々と過ごしています。
まあ、ウイルス感染拡大などという大きな波に対し、ちいさな個人が対応できることは手洗いなどの感染しないという行動しかできないと思っていましたしね、ただ、その個人の小さい行動が大きな波になっていくこともあると思います。
波動学のなかで、乱波動というものを学んだのですが・・・そのまえに波動について少し触れましょうか。
波動というと、高い波動(高波動)低い波動(低波動)を思い浮かべる方も多いと思います。そして、高い、低いとつくことで、高い方が良くて低いのは良くないとイメージされる方もいますが、実際には、良い悪いという意味での高い、低いではありません。
単純に、波打つもの、波の動きである波動が高い波動をしているのか、低い波動をしているのかということを示しているだけです。
この波動は高さや低さを意識するよりは、「どんな波動か?」を意識した方がいいのですね。
波の動きである波動はこの世のすべてのものが持っているのですが、そのなかで人間によって良い影響を及ぼす波動を持つものは、自然なもの、整った波動だと言われています。
例えば、整っている波動で塩の入った瓶を揺らすとどうなるか?・・・塩は瓶の中で真っ直ぐに整います。ですが、乱れた波動、乱波動で揺らすと塩は、ぐちゃぐちゃに揺らされ中身は飛び出し・・・と辺り一面が塩まみれ状態になります。
私は今、人間社会を脅かしている新型コロナウイルスは、世界全体を揺らした乱波動であると感じています。
このウイルス拡大を発端に、世界中のあらゆる人間の心も体も揺さぶられ、思いもしなかった人々の心模様、言動、行動が、日々ながれてくる報道、SNSからたくさん聞こえてきます。
国や人への批判、家族や会社、友人への思いなど、ありとあらゆるものが自分というもの、意識を通して吐き出されています。良いも悪いもごちゃ混ぜになり、個人の心を大きな鉄の棒でかき混ぜられているようなそんな気持ちにもなります。
乱波動で揺さぶれたことで様々なものがあぶり出されたような、そんな感じに見えるんですよね。
自宅で仕事をすることによって家族と過ごす時間が多くなったことで、家族の思いもしない行動にイライラしてしまうなんていうのも、乱波動がめちゃくちゃに揺らしたことで、普段はあまり意識していなかった相手への不満がぐいっと表面上に表れたと表現できかなと思うんですよね。
けれども、この乱波動。
そう悪いことばかりではないんですよ。
いや、言い直しましょう。
いま、乱波動で揺らされてありとあらゆるものが表面上に表れている今。
悪いことばかりではない、良いこともあると気づく目、意識を高めることができるんですよ。
これは、人生をしあわせなものにする最初の一歩で行うことなんです。
なにをやっても幸せそうな人、または幸せな人と、そうではない人、なかなか幸せをもぎ取ることが出来ない人の差は、良いことに気づける目、意識の差なんです。
例えば、たまたま入ったレストランで食べた料理が口に合わなかったとしましょう。
そのときに、幸せをもぎ取るのが上手な人、自分を幸せに出来る人は、口に合わなかった料理を「たまたま自分の口に合わなかっただけ」と思える人です。
せっかくのランチタイムが美味しくなかったもので構成されたのですから、嫌な気持ちになることもあるかもしれませんが、食の好みは人それぞれだと分かっていれば愚痴も批判もでないですよね。
これが、しあわせを掴み取るのが苦手な人、なかなか幸せになれない人というのは、嗜好は人それぞれであることを忘れ、店のスタッフやシェフに強く文句を言ってしまったり、SNSなどに「あの店には行かない方がいい」といったことを書き込んでしまうタイプなんです。
一見、悪いと思われる出来事、不運と感じるもののなかには、かならず、良いものも含まれています。陰と陽を表すモナド☯を見ると分かるのですが、陰のなかには陽の要素が、陽の中には陰の要素が少し入っていますよね。それと同じように、悪いことの中にも良いことが少し混じっているんですね。
いま、マスクがどこにいっても手に入らない状態ですよね。
私は裁縫が苦手で、ぞうきんを縫うぐらいしかしない人生だったんですが、マスクの品不足により、先日、家にある布をかき集めてマスクを手作りしました。
感染症が流行っているなかでマスクが買えないなんて大変と思ったのですが、これがどうでしょう、はじめてマスクを手作りしたことで、思わぬ充実感が味わえて楽しい時間を過ごせたんですよね。
さらに、そのマスクを家族が褒めてくれて使うよなんて言ってもらえて、苦手だった裁縫を今では仕事のように、マスクを作って過ごしています。
悪いと思うことの中に、良いことはかならずあるんです。
太陽光が降り落ちる昼間であっても、星々は空にあります。ただ、光がまぶしすぎて見えていないだけですよね。
それとおなじで、私たちはしあわせなものに囲まれているはずなのに、ただそれに気づいていないだけということがあると思いませんか?
そんなことをいえば、反感を買うかもしれませんし、こんな時ですから不謹慎だと思われるかもしれません。
今まさに大変な状況にある方たちが大勢、それも世界中にいらっしゃることは分かっているつもりです。
本当に今の状況は歴史で知った戦時中にも似た状態で、東京の友人と「生き抜こうね」と話すほど、私たちはサバイバーになっていると思っています。
病気になるかもしれないという脅威。
経済的に生きていけなくなるかもしれないという脅威。
そのふたつの脅威にさらされて、正直、私は初めて、自分を守るものは自分しかいないと痛感しました。今までどこかで、なにかあれば誰かが、自治体が、国が守ってくれる、どうにかしてくれるという意識があったんですよね。
けれどもどうやら、この国ではそれもままならないかもしれないと感じたとき、ものすごい恐怖と後悔を感じました。
今でも毎朝、起きるたびにこの現実が夢で会ったらいい、仕事が出来て、友人に気軽に会うことができる日常が戻ってきて欲しいと切実に願います。
だからこそ。
私は、私の目と意識を高め、見えない星を見ようとしています。
そうすることで、チャンスを掴むことが出来ますし生き抜くことができるはずです。
ヒーリングを仕事にし、自己ヒーリングが出来る手法を教えている立場にいて、「自分で自分を守る時代がきています」と生徒に話しながら、でもどこかで、きっと誰かがなんとかしてくれるだろうと甘い考えを持っていた自分を恥じ、今は本心から、こう言います。
「自分で自分を守る時代がきました。きっと厳しい時代です。だからこそ諦めずに生きて欲しい。生きることを楽しんで欲しい、幸せになって欲しい」
私の大切な人たちには、私と同じように大切と感じる人がいます。また、その人には、かけがえのない人、一緒にいたいと思う人がいて、私たち人間は、直接的にも間接的にも世界中のだれかと繋がりを持っていて、その繋がりを分断してはいけないのだということを、この感染症流行により気づくことが出来ました。
誰ひとりとして、必要のない人間などはおらず、みんながかけがえのない唯一無二の存在。あなたがいることで、私は存在する。そんな世界を間近に感じられたのは、皮肉にも史上最悪とも言えるこの国難がきっかけでした。
先日の日曜日。
ベトナム料理のバインミーを作り、紅茶を入れる茶器をかごに入れ、自宅の裏にある桜の木のもとで家族とランチをしました。
食べるものがあり、家族は元気。雨風をしのぐ家があり、汚れを洗えるお風呂があり、眠ることができる布団があり・・・と、ごく当たり前のあえて意識することも無かったものたちにありがたさを感じ、家族とそのありがたさについて話をしました。
これはあくまでもわたし個人の思いなのですが、ひょっとしたらウイルスは、私たちに今一度、生きることの基本、ベースの部分を見つめ直し、感謝することを促しているのかもしれないと思っています。
ほんとうにこれは美化しすぎた思いかもしれませんが・・・。
ただ、あなたがいることで私が生きていること。
これほど強く思ったことはなく、それがとてもありがたいのです。
ありがたいを漢字であらわすと、有り難いになるんですよね。
私も含めて人間は、難があることで、ありがたいに気づく愚かな生き物なのかもしれませんね。
ファ.ーストノエル